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皆様、初めまして。こんにちわ

柴田欄子と申します。様々な体験を通して58年、母が常づね言っていた人生は

「山あり谷あり。楽あれば苦あり」そして、私のモツトーは、中学校教室前方に掲げてあった「自分に厳しく 人に優しく」でした。

そんな言葉を私は、繰り返しながら大人になり、自分の幸せより周りの幸せを

一番に考えることが、美徳であるような生き方をしてきました。それも無意識に・・・・。

この世は大変な経験があるから私達は成長していきます。

でも、成長の基本は、まず自分が心身共に幸せになることを、最大の目的

として、生まれて来るはずです。

私には、3歳年上の姉がいます。生まれながらに体が弱く現在介護5。

人に起こしてもらわなければ、起きられず胃瘻にて命を繫いでいる状態です。

母は、私が、お腹の中にいるときから、姉が体が弱かった故に「産まれてくる子は体がおおきくて丈夫な子どもでありますように。そう毎日祈っていたそうです。

おかげさまで当時はびっくりの3500グラムの体重で生まれてきました。

小さい頃から、母は姉が心配で、母の興味はいつも姉にありました。

私は、小学校の頃、何にでも興味がある好奇心旺盛な子どもで、生徒会副会長、

放送部部長、合唱部部長、裁縫部クラブ部長、器楽部などありとあらゆるものに挑戦。その頃の大好きな言葉は「チャレンジ!」

朝の放送があるために、走って登校。

昼は給食を放送室へ。放課後は合唱部の練習。下校時間を見計らっては放送室へいき、下校のお知らせを放送。合唱部に戻っては練習後、器楽部の練習に飛んでいく毎日。

ある日、体が思うように動かなくて、病院へ。

その時の病名は・・・・・過労。

笑っちゃいますよね?

あの時が一番頑張っていた。そう何十年もそう思ってきました。

最近、その頃の自分と向き合うセミナーに出会いました。

母は、体の弱い父に変わり生計を立てることを目的に私が2歳の頃、美容学校に通いだし、私は、近くに住む叔母や祖母と過ごす毎日が続きました。

その後、姉の幼稚園へ姉の付き添いのように幼稚園に通います。姉は、私とは違い人見をし、幼稚園の中では、泣いていることが多く、私が机を並べているだけで穏やかに過ごせるからという理由で、その当時、担任の先生の計らいで、幼稚園に入園していないのに、毎日母の弁当を持ち、幼稚園に通っていました。

その結果、私が入園した年には姉やそれまで一緒に過ごしたお友達が卒園し、

周りのお友達が皆、居なくなった時のまるで、取り残されたような寂しさがあったのを、今も思い出します。そして私は、実質幼稚園へ4年通いました。

私が小学校に入学した年、私に妹ができました。

母は、美容室経営、妹の育児、姉の心配で精一杯の日々だったことでしょう。

そんな母の興味を引きたくて、褒めてもらいたくて・・・私は、あんなにたくさんのことを頑張っていたんだな・・・って今、気づきました。

だからと言って母は、私の事をほったらかしにしていたのではありませんでした。

生徒会の副会長に立候補する事が決まると、襷に名前を書いて準備してくれたり、

クラスのクリスマス会があると聞けば、人数分のデコレーションケーキを焼いて持ってきてくれる。

また、器楽コンクール前には遅くまで練習に励む私達にパンを焼いて差し入れをしてくれる。

母なりに一生懸命、時間を駆使し、私のために頑張ってくれていたと思います。

それが、私の頑張りにもなっていたはずです。だから、思うのです。

私も3人の子育てを経験し、様々な問題に遭遇してきて、たくさんの至らなさはありましたが、最後の慰めは、その時々で一生懸命に生きてきた。それだけでした。

でも、母子の関係は、私が想像する以上に関係が深く・・・・繋がりが太かった事そして、その事を認識する事で、子育ての悩みがどれほど軽減することになるかを。赤松あやこ式セミナーを受講した事で思い知ることになりました。

このセミナーは、机上論の教えではなく、赤松先生が、どんな医者からも難病だと

見放された娘さんの摂食障害を自らの手で治すと決め、半年で、完治に導いた

体験から語られるものだから、力強く愛とエネルギーに溢れた講座になっています。

「たくさんの悩めるお母さんや、今まで必死に頑張ってきた女性を救いたい!」

その想いに共感し、覚悟を決め歩んで行く事を決めました。

 

 

 

 

 

 

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